本気
朝は予報どおりの寒さ。
育苗ハウスの中の苗が一部、傷んでしまったものがあった。
2重トンネルに麻袋まで被せておいたのだけど・・・。
だが、それより淡路島で大地震があったというニュース。
関西方面には知人が多くいる。勿論知人さえ無事ならそれでいいという気持ではない、震度6というとただ事ではない。
苗の僅かな傷みのショック等は忘れて情報を漁った。
何事もない訳はないが、最悪の事態に及んではいないようで少し安心した。
ふと、淡路島の思い出が浮かんできた。もう20数年前になるが、人形劇団の公演の為滞在したことがあった。
宿の近くの居酒屋で仲間で飲んでいた時、とびきり可愛い女の子が働いていた。
まだ10代だと言っていたと思う。
何かアプローチしたわけではなく、たわいない会話を2,3した程度。
一目惚れしたっていう程のことでもなく、名前も知らず、すぐに忘れてしまっていたのだが、実は今もその美形を思い浮かべることができる。
今はお母さんをしているのかな、島で暮らしているのかどうかもわからないが、無事でいるかなぁ。
ああ、なんだか変態おっさんの戯言になってる・・・
しかし、こんな日の新聞の片隅に、震災の影響で見合わせていたがMOX燃料積んだ輸送船が日本に向けて出発、なんていう記事があって絶句してしまった。
久し振りに素手では手の悴む朝。
それでも陽射しはクリアで輝かしい。畑に隣接するソメイヨシノが3部咲き。真っ青な空とコントラスト良く、とても映えた。
今日の作業はニンニク株周りの除草作業から。これに半日を費やした。
あぁ、今年もまた草との長い付き合い(戦い!)が始まったなぁ、と思いながら。
草との共存とはいっても、密接したところの草は、ほとんどが当面の敵でもある。
この相手に勝ってもらわなければ収穫はおぼつかない。
勝負事のセオリーとして、相手の長所を消す、良い部分を出させない、その前に潰す、ことが大事とよくいわれるのだが、僕は、何度か書いたこともあるのだけど、競り合ってギリギリの勝負に勝ってもらうことを理想としている。
ギリギリ勝つって抽象的な表現だが、苦労して苦労して(収穫に)到達する、というイメージといえば解りやすいか。
何故そんなことを思うのかというと、苦労を重ねた人と、僕のように苦労が足りない人間では醸し出すもの、味わいというか・・・が、 まったく別次元のように違いを感じるから、それを思い浮かべている・・・自分で苦労を決して語らずともオーラが物語ってる、って人確かにいますからね。
苦労はチャンス、それがあなたの輝く為の道なのかもしれませんよ・・・へへへ、あ~胡散臭いな。
当てはまるのは、当然人間だけのことではない。
苦労、とか困難、とか人間が言葉を作ったが、元々生物は、どんな環境にも対応して生き抜こうとするもの。
その環境が困難極まった時には、命絶たれてしまうが、最後の一瞬まで、その命を生き抜こうとする。
潜り抜けた困難の値が大きいほど、その生命には、内容が詰まっていないだろうか。
分かりやすい例えで、平地の野菜と比べて高冷地の野菜が美味だと、一般にいわれていることだが、何故か?
それは、昼夜の温度差による。乗り越える困難の大きさによるのだと思う。
ここから先、自慢話のようで恐縮だけれど、今まで食べた野菜で1番美味しい、全然違ってます、なんていう、そういう連絡を受けたことがある。それは5件や6件ではない。ざっと数十回、いや、もっとかも。(できるだけ褒め言葉は真に受けて、活力源にさせてもらう主義なので・・・)
この美味しい、美味、ということ、実はこれ、舌で感じる以外の要素も加味されているのではないか、と勝手な想像をしてみる。
言葉にするのは難しいが、苦労人が醸し出す、ああいう”味”わい。目を、そして五感を、心を、満たす野菜。
ギリギリの勝負に大いなる意味がある、と、そう思うから、非効率でも続けている。続けられる。
多種多様な異生物に揉まれながら逞しく育って欲しい。困難を出来るだけ自分の力で乗り越えて欲しい。さてそこで、何処まで優位性を確保させるか、というラインコントロールが僕の日々の大きな仕事である。
作付け量により、品目により、成長段階により、季節により、天候により、場所により・・・、それはそれは、シビアな毎日が始まった。
隣の小諸市から、自然農で就農して3年目のTさんご家族来訪された。
カルッち効果を見極めたいとのこと。
人が時間を割いてやって来てくれることは嬉しいものだが、実際同業者としてやっている方の見学殊に嬉しい。
相手が農業者でないと、ついつい誇張した表現をしたり、或いは過大な期待を打ち消そうと卑下してしまいがち・・・。
本日はありのまま、何1つ誇張無く、伝えられたのではないか。
見学が次の日(4月1日)なら、1つ2つ大嘘ついたはずだが・・・。
少しは参考になっていれば良いな。
共にいろいろなこと、高めていきましょう。
カルっちで播種ライン(蒔き溝)作る。
これを購入する前、相談した人には、軽い管理機なんて、跳ねちゃって使い物にならないよ、どうせならある程度のパワー(&重さ)のあるものじゃないと、と言われていたが、なんとなく勝算があって、片手で持てる程のこの機械を買ったのだ。
そして、確かにバンバン跳ねるんだな、これが。
でも良かった、これで。重くてハイパワーのものを使うっていうことは、普通の耕す栽培をする以外に選択の余地がないのではないか。
狭く浅く、鍬でやっていたのと同じようなことができないか、という考えでこれを買ったのだから。
普通に運転をすると確かに跳ねてばかりだが、ぐっと力を込めれば土に入っていく。押し込みすぎれば深く耕すことになってしまい、その上今度は前に進まなくなる。耕すのでなく削るイメージなので、浮かせ気味に進ませたり、力は常に使って、場所によって角度とバランスを保って扱わなければうまくいかない。一瞬たりとも集中力を切らせないし、はっきり言ってものすごく疲れる。作業を終えると手はつったようになり、腕はパンパンに張り、腰は痛くなった。
今まではこの作業を、三角鍬でやっていた。
百回、千回と鍬を力いっぱい振るっていた時と、今日の作業では疲労の度合いは変わらない!・・・ということが判明したけれど、それも悪くない。慣れて上達してくれば、少し楽になるのかもしれないが、どうだろう。
時間は確かに早くなる。10倍は早い。
まあ、カッコイイことを言うようだが、決して僕は楽をしたいのではない。むしろ楽を覚えたくないという、心の深いところに根を張っている意識があるように思う。
だから鍬を振り続けるのは全然嫌ではなかった。
農業者に、ぶくぶく太っている人が多いことが、僕はどうも好きではない。健康を提供するべき人間が運動不足、不健康って?・・・
という思いがある。
いやしかしちょっと待てよ・・・ここで今までの自分を振り返ってみれば、能率は決して優先せず、いたずらに時間ばかりは人一倍使っての農作業。太ることはまずないだろうが、果たして健康的と言えたかどうか・・・ 実際検診では、思いっきり不健康のデーターが出ている訳で。
食事時間2,3分なんていうアホだし。偉そうなこと、一切言う資格なし!だった。
・・・そういうことなので、カルっち効果を、そういうところの改善にも充てられたらと思うのだ。
しっかりゆっくり食べて、寝て・・・ 良い農業者でい続けられることを目標に。
庭にある梅の木の
蕾はぷっくり膨れたままで、今日はひとまず待機ですね。
野菜を自分で作りたい、と思い立ち、8畝(240坪)の畑を借りて、実際にはそのうちの2畝(60坪)足らずで家庭菜園を始めたのが2003年の4月。
その時から間もなく丸10年になる。
当初から、”不耕起栽培”に取り組み、模索、試行錯誤を続けてなおこの栽培法を愛し続けた10年間だった。
ただ、この間、この栽培しか経験がないというわけではない。1年間勤めた農業法人では、農業のイロハを教わる中で肥料や農薬の散布もトラクターの運転も経験した。慣行農業がどういうものかは理解している。
それぞれ栽培技術に関しての、メリット、デメリットも年数を経るほどにより深く分かってきた。
10年1区切りと考えたわけではないが、1つの、以前から頭にうかぶことはあったのだが・・・ 考えを実践に移してみることにした。
小さな管理機、カルチベーターをネットオークションで購入した。カルチベートは直訳すると「耕す」だから、まさに耕す機械を購入したのである。
といっても20坪程度の庭を耕す為に使用するような極小パワー品なのだが、欲しいと思ったのはそういうものだった。
エンジンのついている農業機械は、草刈り機に次いでこれで2台目だが、共にまだ「我が手で操る」という感覚を保て、手業としての技術を磨いていけそうにも思えるのが、せめてもの免罪符のようで。
さて、この機械を使って狙うのは極々狭く浅く・・・表面を浅く削るような感じ。
全国で時々やっているらしい「自然農の学びの会」等で行なわれるレクチャーをみれば、多分(全く保証はないが)、作付けの場所は草を削ったら、整えるために軽く耕すはず。・・・いや、少なくとも僕はそうだったし、そうでないとうまく発芽したり、根を張ったりしないことが多いと思う。
だから厳密なことを言えば、”不耕起栽培”は決して耕さない栽培のことを言うわけではなく、土を攪拌するほどには耕さないことなのか、と思う。
まあどうでもいいんだよな、ほんとは。「自然農」とか「不耕起栽培」とかの言葉も、人に伝える時に便宜上使われるだけで、的確な表現とも思えない。あってもなくても良い様な気さえする。
話は少し飛んだが・・・ 鍬や鎌でやってきたことと余り変わらぬように機械で、良い部分をなくさずに、播種や植え付け作業のスピードアップを目指す。
目標は収穫量アップ。具体的には、セットに詰める野菜の量を増やしたい&食べてもらえる人の数を増やしたい、なのだが、それは面積拡大を目指すことではない。1つ1つの作業を今まで以上に濃密に集中して行うことで達成したい。
そのためのスピードアップである。
そして本日試運転、腕を磨けばうまくいきそうな気が、ムムムやりがい!!
永続可能な農業「自然農」とはいうものの、なかなか永続しない人が多いことも知っている。
家庭菜園なら良いだろう。
隣の家の化学肥料たっぷりの菜園に、比べるべくもない小さな小さな産物でも、引け目など感じず、堂々としていれば良い。
そこには比べる必要のない充分な価値があり、味もある(おいしい!)。
だが、生業として農業をしていく場合には、そのハードルはかなり高い。
僕はできることなら、農業者であることを生涯永続したいと思っている。
そのためには、"デメリット”に対しては改善を考えなければならない。
一歩一歩、ゆっくりと長く、歩くために。
実は、僕の中では、今までも繰り返してきた改善と比較しても、そんなに大きなこととは思わないのだけど、この変化によってなにか、作物の味なり、醸し出していたエッセンス(?)なりに変化が起こったとすれば、既存のお客さんは離れていってしまうのだろうな。勿論自分でもそれは絶対に避けたいこと。
いや、未来は分からない。まあ、前向きに歩を重ねましょう。=ええ、今僕は、ソートー前向きです。
真冬日(最高が0度以下)ではなかったが、暖かかった日の後だけに、怖ろしく寒く感じた日でした。
こんな日には、踏み込み温床の上の、まだ播種したばかりの夏野菜の為に、トンネルは閉じたままにして温度を保ちます。
「発芽」は最大のポイントです。我が子の誕生を向かえるような緊張感を持って見守ります。
寒かった冬に、突如記録的に暖かい日々が訪れて、畑や野山に野菜や野草がハッキリと生きてきました!
厳しい冬を乗り越えたもの達、小さな身体の中にパワーがぎっしり宿っている。
甘味を通して、伝わるでしょうか。
土の凍みが融けて、人参が採れるようになった。
同じく藁で防寒していた、ほうれん草は青く大きくなってきて、とう立ちまでが絶品期間。
見た目にはとてもそうとは思えない。でも、霜枯れの葉も余り綺麗に取り除かなくても、さっと茹でればあら不思議、綺麗な緑になるのですよ。
待ちに待った!蕗の薹が裏山にようやく顔を覗かせてくれました。
久し振りに、”旬のセット”再開しました。
天気は、晴れ→曇り→雨→吹雪→晴れとめまぐるしく変わり、低気圧の通過でぐっと気温が下がり、ぼちぼち始めた苗の管理や野良仕事ではあたふたとさせられながら、でも、そうそう、この時期はこんなもんだよなぁ、春が近づいているんだなぁ、と少し余裕を持って感じることが出来るぐらい、百姓としてようやくそのくらいの年数を重ねてきたのだと思う。
毎年毎年、今年はおかしい、とかなんとか、天候についての言葉を耳にするが、実際は、言うほどにはそんなことも無く、大きな傾向というのは毎年変わりなく、同じ頃に同じような気象を繰り返すように感じる。
GW頃のような暖かさあり、真冬並の寒さあり、嵐あり、そして大雪もあと1回はくるだろう。
さて今は、スタート地点に立っている。これから1年の農作業をイメージしてみる。
四季のいろいろな表情を思い浮かべる。
自然は酸いも甘いも与えてくれる、ありのままの自然をしっかりと受け止めて、できることなら何もかも自分の糧とできるような発想力と精神力を持ちたい。
ありきたりの綺麗ごとかもしれないが・・・ 我々”生き物”は自然とうまく付き合えるように、押し込めるのではなく(そういう発想は人間だけ)気負うことなく、結局のところ、いかにその中に調和して生きていていくか、人間に問われるのはそこを離れずに考えるられるか、なのだろう。
御近所にやってきた子犬、可愛い可愛い。もう仲良しだ。
うちも飼いたい、と言われる前に、飼いたいなぁって思った。
犬って人間とずっと一緒にいても、本能的にストレスの生じない生き物だと聞くと尚一緒に暮らしたい。
ああ、突然のこの誘惑、大分前にはやった言葉で「心の隙間お埋めします」っていうのがあった、そういう感じなのかな。
充実の空間。
念願のバイオトイレが完成しました。
うん、これで安心です。
種取りしたものを集めて確認したり、その他の種を購入したり、播種に備えます。
散乱していたセルトレイやポリポットも集め、温床の土を積み上げてあったものを篩い、新たに落ち葉をかき集め温床を作ります。
遅らせて、遅らせて、さあ、いよいよ始まります。
今年の畑に思いを馳せ、気が引き締まりますが、何年やっても変わらずに胸がときめくものです。
播種のタイミングを遅くしたのは、過去数年の経験からの判断です。
さて、今年の一押しを言いますと・・・ かぼちゃです。
自家採種は7年か8年目ですが、自分で取った種ではなく、かぼちゃを食べたお客様が「あまりに美味しかったので・・・」と、採種したものです。
丁寧に洗って、乾燥して、包装して、送ってくださいました。
いつものことですが、形良く、美味しそうなものを自家用に回すということはないので、これまで自分では”最高のかぼちゃ”から採ったことは無かったはずです。
それなりに、美味しいものから採種をと、まあ心掛けてはいましたが・・・。
今回の種は、”あまりに美味しかった”かぼちゃの遺伝子が組み込まれた種、その命を生かしてくださった彼女の、大きな愛情と願いが込められている。
心を込めた栽培で応えたいと思っています。