雨上がりの土の中には好物のミミズが沢山いるので、張り切ること張り切ること!
今日は少し長い時間、娘たちをじっくり観察。
食欲について考えていた。
単に空腹が満たされることを欲するだけだとすると、なんか寂しい気がする。
ゲージ飼いの鶏などはそれ以外知らない。いやもしかしたらそれさえもあまり感じることはないのかもしれない。ひたすら餌を与え続けてどんどん産ませたり、太らせて食用にするのだと聞いたことがある。
それも毎日変わらぬ決まった餌。
彼、彼女達の中にどんな心が芽生えているだろう。
淡々とただ毎日を生きることに専念している、なんて傍で感心してやれるだろうか。
どういう過程があろうと同じ1つの命の誕生と終焉、そこになんら感情を差し挟むなんて無用、だろうか。
うちでは餌にも相当のバリエーションを加えている。主食は玄米に小麦、うどん、パン、そば、パスタと日替わりだ。ゴマ塩を振りうどんやパスタは醤油をかけることもある。
おかずやおやつやつまみもまた、旬の野菜セットに、野草、草の種、虫、大豆、煮干し、米ぬか、ヨーグルト、豆腐・・・毎日日替わりで、何種類もの食材が自由にチョイスできるような形で提供されている。
されども欲にはきりがないから、要求は贅沢になってくる。
はじめの頃大喜びで食べていたうどんも今はそれほど喜んではいない。それで新鮮さをもたせるために日替わりメニューにしている。
ミミズはあそこまで喜々として食い付いていくのは希少価値があるから、そして自分で探し出す獲物だからか。
煮干しも大好きなつまみだが毎日あげているから大分感動は薄まっている。あんまり慣れてしまわないようにほんの僅かしかあげないようにしている・・・。
お坊さんのような小欲な生き方に価値があることはよくわかる。
豊かでもっともっとと追いかけていた時代に何不自由なく生まれ育ち、今ではその弊害を感じる時代を生きているからこそわかるところもある。
それこそ毎日決まった食事、変わらない日々がある。ベースがそこにしっかりとあり、それが欲望を膨らませたものでないからこそ、小さな日常の変化に大きな幸せを感じられるという、それは人間にとって究極のお手本かもしれないと思う。
幸せと書いたところ、ときめき、と言い換える。
きっとこの”ときめき”が人が生きていくために欠かせないものではないかと、ふと思ったからだ。
それを深く得るために、どのように生きるべきかを学んでいくのが、もしかしたら仏道なのではないかと。
鶏の場合はどうだろうな。鶏に仏道はわからないし、要らないかもしれない。
でもきっと”ときめき”は必要だと思うなぁ。
ときめきを沢山感じられる”鶏生”を歩んでほしいよなぁ。
彼女たちの食欲と”ときめき”がうまくリンクしてくれるように、ちょんと関わってあげたいなぁ。
自由に動き回り、たらふく食べておなかを膨らませて居眠りして、またしばらくするとむさぼり始めて、わめき散らす・・・
そんな彼女たちを見ていて、そんなことを思った。
・・・
もしかすると、野菜もでは?
多様な食べ物(養分)に囲まれた環境で新鮮な心を失わずに育ってくれるような、そういう畑であったらいいな。