保育園
昨日生後2日目のひよこ6匹入園。
当保育園、電球使用による温度管理で夜通し明るい不夜園。
24時間体制、預からせていただいた生命、大切に育てます。
・・・・
遊んで食べて寝てをほぼ1時間ごとに繰り返す。生後3日目、もう昨日より大きくなった。それぞれの個性が表れてきた。ずって見ていても飽きない。
昨日生後2日目のひよこ6匹入園。
当保育園、電球使用による温度管理で夜通し明るい不夜園。
24時間体制、預からせていただいた生命、大切に育てます。
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遊んで食べて寝てをほぼ1時間ごとに繰り返す。生後3日目、もう昨日より大きくなった。それぞれの個性が表れてきた。ずって見ていても飽きない。
昨日の早朝は山に入り森林浴、山菜採りをしがてら植林した木の生育状況を見て回る。
「美味しい山づくり」と銘打って、10年以上前から管理している。
管理といっても年に一度灌木の除伐をするだけだ。脈々と営まれるこの森林の営みに、ほんのわずか手を入れているに過ぎないが、いい感じになったなぁ、と爽快な気分になった。
自分好みの山にするための手入れは、実際ほんのわずかで充分なのだ。いや、手入れがほんのわずかであることが重要かもしれない。”いいもの”を感じさせてくれるのは、自然なのだから。
リフレッシュタイムを終え畑に。
ここは職場であり能率を上げるべき場所であるという、厳しい現実と向き合っている。
そしていわゆる自然農ではない、もっと多くの収量を望める農業でなければ、という気持ちで奮闘しているところなのだが、そこは一筋縄ではいかない。
今は育てた苗を畑に定植していく時期だが、先日植え付けたキャベツの苗は数日で激減してしまった。”根きり虫”の食害による。
耕しすぎたのか・・・。
作付けラインだけを筋付けて植える、から始まってできるだけ狭く浅く耕す、になりそのラインがだんだん広く、グリーンベルトはだんだん狭く・・・ほぼなくなって・・・能率を上げるため、継続するため、といっても、この広くなったライン(道)は本当にその目的につながっているのだろうか・・・。
10年続けた不耕起栽培のころ根きり虫にやられた印象はなく、気にしたことなかった。
やつらには他に食べるものがたくさんあったからだろうから。いつもの、食べなれた、大好物を・・・食べていたに違いない。
今は管理機で耕す。その住処をぶっ潰し、食料を奪い飢えさせて、そこにひょこひょこ植えた苗を食べられて、このやろぉ!といったらアホだ。だが、それをするのが農業かもしれない。
近くに離すべき草生地がないから握り潰し、そしてまた新たに苗を植えた。
ここ数年、自然の営みの中に作物のスペースを間借りして、仲間に加えてもらえるように周囲に気を配りながら、作物の成長をサポートすることが役割であったはずの「自然農はやめました」と、僕は周囲に言うようになった・・・。
90歳を超えた篤農家が隣の畑をやっている。僕はレジェンドと勝手に呼ぶ小さな巨人。
これがキャベツ定植を待つその畑の姿。
これをみてまず、草がないなぁ、という感想を持つが、そんなことは”人間の栽培地”としての畑の姿なら当たり前のこと。世の常識からいってそんな感想はよほど珍しいだろう。
そしてこの状態を数十年キープし続けている。
だから根きり虫はここがここに住み着くことはないだろう。
従来の畑とはそういうところだ。
今更ながら驚くのだが、自然に対する”耕起(耕すこと)”の威力は凄い。草は一瞬で見えなくなるし、ほんとうに長い間伸びてこない。
不耕起栽培では、栽培とは草刈りのことではと思うほどだったのだが、耕すと草とのかかわりは別次元になる。そこには自然から人間の作物を隔離する、という感覚があるかもしれない。確実に人間のものを作るための隔離を。
本来圃場は、自然との共生というより闘いをするところなのだろう。耕すことは最高の先制攻撃である。
あ~しかし、なんか嫌だな。レジェンドに憧れはしてもそんな従来の農業が僕には出来ないな、闘いが嫌いだし。
もう少し好戦的な男なら、ボクサーとしてももっと上にいったけど、性格は仕方ないし。
いやしかし、そんな甘いこと言っていて食っていけるのか・・・
(・・・ともに生きる道はないのか!?)もののけ姫より~
・・・・
いろいろ考えるがやはり・・・僕の望むイメージはやはり、圃場内に豊かな生態系の舞台があって、そのエネルギーが感じられる場所で、その恩恵によって作物が健やかに育っていく姿。
これはきっと自分の感性のかなり深い部分の好みによるイメージ。僕は未だ、大きな意味で”自然農”を模索しているのかもしれない。いやずっとし続けるに違いない。
圃場内のベストスペース
就農以来不耕起栽培を続けている区画(推定30年以上不耕起)
夏の連作白菜作付けの舞台
生育旺盛なライ麦!
この時期にここまで生い茂ってくれるとは・・・。
対して畝間の玉ねぎの生育がいまいち。
これではまずい。
畑の主は玉ねぎを重要視しているから。
玉ねぎの生育条件に豊富な日光は欠かせないようなので、速やかに苦渋の決断をした。
草刈機で刈り倒し、あっという間にタマネギの畝間のマルチに。
当初の目的ではないが仕方がない。別の役割を担ってもらう。
まさにマルチな活躍をしてくれるマルチ麦。
僕のノータリンを身を挺してカバーしてくれる。
さあ彼らと一緒にタマネギと畑を育てよう。
後悔したら悪い。
「旬のといえないセット」が長かったですが、大分旬を感じられるセットになってきました。
昨日発送のセットに沢山入れられたのはコゴミ、それと原木椎茸でした。
椎茸は主に春と秋に発生しますが、どちらかというと春の方が沢山収穫できます。
旬のエネルギーは感動的です。
収穫にあたって、質も量も想像をはるかに超えてくれることがあります。
そんな時は、何個ずつとあまり決めずに、旬のものは旬らしく、ドサッと入れたいと思っています。
今シーズンもよろしくお願いします。
旬のヨモギを沢山摘んできた。
洗って、軽く粉ふって、ひとつかみづつ少量のオリーブオイルで焼き、塩ちょんで食べる・・・Tさんお勧めレシピで採りたてを堪能。
こういう旬の野草の風味は、感性に直接働きかけてくる感じがして、とても贅沢な気持ちになる。
自分は人間社会の一員だけど、根っこは自然と一体なんだということを思い出すゆえの、安心感のようなものかなぁと思う。
運命が自然に委ねられているということ、それは恐怖かもしれないが、安心感がもっと大きい。
17,8年前に林業で田舎暮らしを、と思い描いた時に移住先の第一候補だった熊本で起きた大地震。その災害が引き起こしている様々な状況を想像すると胸が痛みます。
この前の自然賛美のブログ記事に反するように、大きな自然災害が人を大変な困難に陥れていて、またいろいろ考えさせられます。
しかしながら、すべての基盤である自然を恨むのは筋違い。
いつどこでこのようなことが起こるかわかりませんが、自然を慈しむ心は常に持ち、享受して毎日を暮していけたらと、遠く離れた平和な場所で思ってます。
・・・
外は雨がかなり降っているので、昨日畑で考えていたことをまとめて書いてみたいと思います。
・・・
昨日畑での作業はニンニク周りの除草。
こんな感じ…
収穫まで2か月、ここから肥大期に入るこのタイミングは欠かせません。
さじ加減は試行錯誤の繰り返しを経て心得ているつもり、取りすぎず残しすぎず・・・。
この作業中をしている時、Tさんの言葉を思い出した。
ネギの土寄せすごくしっかりしてるんですね・・・私は植えるだけですけど
僕は、
そうです、ちゃんと売れるように育てなきゃいけないので…でもそれもいいですよねぇ きっとたくましく育ちますね
と返した。
栽培方法は僕と自然農のTさんでは違っている。もちろん良い悪いはない、方向性は共通点あって相違点もあり、栽培は違うということでいいと思う。
栽培に関して、ネギに限らずほとんどの野菜の生育を促すのに土寄せは有効な手段という認識を僕は持っている。そして不耕起自然農で土寄せをするのは難しい。
理想としての自然農のイメージは今も持っているが、例えば青々とした草の中に野菜の種を落としてほったらかしておいて育ってくれるものだろうか。その中を奇跡的に超たくましい野草の様な野菜が育つかもしれないが、その確率が限りなく低いことは確か。
そうして不耕起草生栽培の試行錯誤は始まっていく。
栽培となれば、その主は誰もが作物に愛情を抱くはずだが、一番大事なのは、その栽培の行く末に何を願っているだろう、というところ。そこがそれぞれで異なっていたりする。
僕はずっと長い間、野草のような、たくましい野菜を育てたい!と安直に言っていた気がする。
今考えると、実はたくましい野菜を育てたいというより、美味しい野菜、食べる人に有益となる野菜を育てたい、そのためにたくましく…という方が正しい表現ではないかと思う。
そして最近はストレスを与え乗り越えるさせること=たくましさを形成することとは必ずしも言えないと思っている。
幼少期には注意深く適切なサポートを施す。成長期になればまず充分な栄養分は必要であるし、同時に多様な自然界の厳しさの中で自立し、そうしたなかでたくましさを身に着けていく。その様子を過干渉過保護を避け見守っていく・・・
という栽培。それが僕がなすべきことではないかと思っている。ごくありきたり・・・まあ人間に置き換えても当たり前のこととも思うが。
・・・
農家として食べる人に有益となる野菜を、(たくさんの喜びと自分の現金収入のためにも)沢山作りたい。
農家の生活は大変だが、ただ(高く)売れる野菜を沢山作るということが、僕が望むことではない、ということ。そこは大きく違う。
ベースにあるキーワードは”健康”と”美味しさ”である。
Tさんの様な方に認められる野菜。そして台所に立つ自分、食べる家族にとって有益な野菜を育てたい・・・それが僕の願うこと。
様々ぶれまくるタイプの僕だけど、そこはぶれずにやり切ることで生活も成り立つのだと思っている。
・・・
晴れてきました。畑に出ます。
うまく書けたのかわかりませんが、
今後ともよろしくお願いいたします。
うっかりしていると感動の瞬間を見逃してしまう。
春の生命のエネルギーがターボエンジンのように加速する。
今日のセットは何にしようか・・・きっちり決めないでおく、見渡せば次々に旬が顔を出してくる季節だ。
さてさて待ってました!こごみが顔を出した。とても人気のある、万人受けのする山菜といったらこれが随一。
群生スペースを年々拡大中なので楽しみ楽しみ乞うご期待。
・・・
いつも土曜に畑に来て下さるお客さんのTさんが、都合上今日来訪となったので慌ただしくも勇んで畑へ乗りつける。
Tさんはいつものように箱と袋持参&作業着スタイルに爽やかな笑顔。
作物はまだほとんどないが、草の生育の勢いが付き始めた圃場を「贅沢な畑」といって元気に歩き回っている。
僕が今週はあの辺りのあれとあれが旬ですよ、などと言うと、目を輝かせて収穫に向かう。そのほとんどは所謂草(野草)とよばれるもの。僕も一緒に収穫しながらおしゃべり。これが楽しい。
かなり長いこと、だがあっという間に時間は過ぎた。Tさんいわく「たくさんのお宝」を今日も大きな箱いっぱい詰めて、こちらが恐縮するほどお礼を言って帰って行った。
・・・
今は野菜の少ない時期である。
野菜セットはお休み中です、という農家も多い。
だが一般的に、春は高揚感というか生命の活気に満ちた時期なのに今は野菜が採れませんというのがピンとこない、という感覚を抱いている人が少なからずいると思う。非農家の人と接するとそういうニュアンスを感じることがある。
確かにそれはわかる。この地底に秘められたマグマが噴出すようにエネルギーの充満した春という季節なのに。「畑は寂しい時期です」とか聞くと失望を感じても無理もないこととは思う。
ちょっとした価値観の変革ひとつで、自然が「贅沢な畑」を形作ってくれるのではあるが・・・。
無論現代にTさんの持つ価値観が主流になるとは想像もつかないが、そんなことはどうでもいい。
Tさんは確実に健康で幸せだと 醸し出すものから感じられる。
そのTさんと同じ時間と空間を共有するひととき。それは僕にとっても「お宝」の時間となってる。
そんな畑の価値を保ち続けていたいと思う。
あ、うっかり!これもう出てた。
ウコギ。来週はこれを紹介しなくちゃ。
ジャガイモを植える時に出た石を並べて思いを馳せる。石器時代に。
この畑、以前から思っていたが、出てくる石出てくる石”使えそう”なものばかり。
ああ太古の時代・・・優れた道具を探り当てたときの喜びの大きさや、その道具をどう工夫して使っていたことだろうか、という想像中・・・
自分の道具愛してマスカ?自分の中で、そんな風にささやく声がする。
いい仕事したければそこからデスヨ
(やっぱりきたか!)
どっかいっちゃって探してばかりイマセンカ?
確かに!
しかし、このもう1人の自分て奴の存在は時々いい気分を邪魔するなぁ。
・・・どうも厳しすぎるのと緩すぎるのがいる気がするが・・・そんなものかな。
さ、仕事仕事。
うちの周辺の桜もほぼ満開になっています。
今年はここ数年と比べて1週間から10日程早いでしょうか。
昨日一昨日は気温もかなり上がったなか、まず春1番の大仕事、種ジャガイモの植え付けをしました。
いつものように、男爵、レッドムーン、きたあかりの3品種。
きたあかりだけ僅か買い足しましたが、ほとんどの種イモは貯蔵していたもの。うまく種を残せたので今年の作付けは気分がかなり乗りました。
暖かいというより暑い中で良く動いたから汗かきましたよ。多すぎる芽は掻きましたよ。
さて、長い三寒四温を経て、春はやってきた のに、今日の風は冷たかった。
昨日一昨日との気温差は10℃以上。
まあこんなもんでした。暑かったり寒かったりしましたね、いつも。その平均を取って平年並みの気温というだけで。四季なんてうまいこと区切ったものだと思いますが、季節はは毎日ばらつきながら移ろっていきますね。
まだ咲かずにほんのわずかに残っている桜の花蕾はこんな日は当たり前のようにじっと待っていますが、毎日の変化に対応することが生きることなんて、人間はとても言えませんね。
そんな人間が快適を求めることで自然を壊してしまうことが多いのだと考えると、やはり心身とももっと強くなりたいと思います。
野菜ともども強くたくましく、自然と添えるように、頑張っていきたいです。
市内で希少な無農薬の農業をしているグループの会議での、1人の方の話し・・・
主人がわたしの仕事を道楽だと言った、言われた時はそれが悔しかったけど、道楽って書いてみると”楽しい道””道を楽しむ” これ、悪くないじゃない?
そうだ!そうだね、良い言葉だ。
農協の指導に基づいた慣行農業を避けて始めた、自分で考え試行錯誤する道を歩んでいく面々。それぞれ自由で独歩していて距離感はさほど近くない。
長いものに巻かれることを良しとしないところが共通項か。
独立独歩の辛さや苦しさは楽しみに他ならない。
そう発想できてこその道楽者仲間。
自然と勇気づけあっていられたらいい。