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自然農

  

 

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昨日の早朝は山に入り森林浴、山菜採りをしがてら植林した木の生育状況を見て回る。

「美味しい山づくり」と銘打って、10年以上前から管理している。

管理といっても年に一度灌木の除伐をするだけだ。脈々と営まれるこの森林の営みに、ほんのわずか手を入れているに過ぎないが、いい感じになったなぁ、と爽快な気分になった。

 

自分好みの山にするための手入れは、実際ほんのわずかで充分なのだ。いや、手入れがほんのわずかであることが重要かもしれない。”いいもの”を感じさせてくれるのは、自然なのだから。 

 

 

リフレッシュタイムを終え畑に。

ここは職場であり能率を上げるべき場所であるという、厳しい現実と向き合っている。

そしていわゆる自然農ではない、もっと多くの収量を望める農業でなければ、という気持ちで奮闘しているところなのだが、そこは一筋縄ではいかない。

 

 

 

今は育てた苗を畑に定植していく時期だが、先日植え付けたキャベツの苗は数日で激減してしまった。”根きり虫”の食害による。  

  

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耕しすぎたのか・・・。

作付けラインだけを筋付けて植える、から始まってできるだけ狭く浅く耕す、になりそのラインがだんだん広く、グリーンベルトはだんだん狭く・・・ほぼなくなって・・・能率を上げるため、継続するため、といっても、この広くなったライン(道)は本当にその目的につながっているのだろうか・・・。

 

 

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10年続けた不耕起栽培のころ根きり虫にやられた印象はなく、気にしたことなかった。

やつらには他に食べるものがたくさんあったからだろうから。いつもの、食べなれた、大好物を・・・食べていたに違いない。

今は管理機で耕す。その住処をぶっ潰し、食料を奪い飢えさせて、そこにひょこひょこ植えた苗を食べられて、このやろぉ!といったらアホだ。だが、それをするのが農業かもしれない。

近くに離すべき草生地がないから握り潰し、そしてまた新たに苗を植えた。

ここ数年、自然の営みの中に作物のスペースを間借りして、仲間に加えてもらえるように周囲に気を配りながら、作物の成長をサポートすることが役割であったはずの「自然農はやめました」と、僕は周囲に言うようになった・・・。

  

 

 

90歳を超えた篤農家が隣の畑をやっている。僕はレジェンドと勝手に呼ぶ小さな巨人。

 

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これがキャベツ定植を待つその畑の姿。

これをみてまず、草がないなぁ、という感想を持つが、そんなことは”人間の栽培地”としての畑の姿なら当たり前のこと。世の常識からいってそんな感想はよほど珍しいだろう。

そしてこの状態を数十年キープし続けている。

だから根きり虫はここがここに住み着くことはないだろう。

従来の畑とはそういうところだ。

 

今更ながら驚くのだが、自然に対する”耕起(耕すこと)”の威力は凄い。草は一瞬で見えなくなるし、ほんとうに長い間伸びてこない。

不耕起栽培では、栽培とは草刈りのことではと思うほどだったのだが、耕すと草とのかかわりは別次元になる。そこには自然から人間の作物を隔離する、という感覚があるかもしれない。確実に人間のものを作るための隔離を。

本来圃場は、自然との共生というより闘いをするところなのだろう。耕すことは最高の先制攻撃である。

 

あ~しかし、なんか嫌だな。レジェンドに憧れはしてもそんな従来の農業が僕には出来ないな、闘いが嫌いだし。

もう少し好戦的な男なら、ボクサーとしてももっと上にいったけど、性格は仕方ないし。

いやしかし、そんな甘いこと言っていて食っていけるのか・・・

 

(・・・ともに生きる道はないのか!?)もののけ姫より~

・・・・

いろいろ考えるがやはり・・・僕の望むイメージはやはり、圃場内に豊かな生態系の舞台があって、そのエネルギーが感じられる場所で、その恩恵によって作物が健やかに育っていく姿。

これはきっと自分の感性のかなり深い部分の好みによるイメージ。僕は未だ、大きな意味で”自然農”を模索しているのかもしれない。いやずっとし続けるに違いない。

 

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圃場内のベストスペース

就農以来不耕起栽培を続けている区画(推定30年以上不耕起)

夏の連作白菜作付けの舞台 

 

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