やればできる

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東京から田舎に移住して、生活は一変し、思い描いたように百姓になり、身の回りのことをできるだけやろうと思っている。

1つまた1つとやるべきことが現れ、それを何とかこなせばそれが”できること”になる。

都会の暮らしには農機類やチェーンソー、自家用車も不要だった。

それが田舎の暮らしは、そこは描いたイメージとは少し違った・・・結局のところそういう時代だからだが・・・そうした”機械”に支えられて成り立っている。都会とは別の意味で機械頼みの暮らし。

それらが今の生活では手足のような必需品となっている。

それなのに・・・僕は当初から「機械いじりは」苦手と言っていた。修理にはあまり手を出さなかった。まったくやらないことはなかったが、ちょっと入り組んでくるとや~めた、と投げてしまった。

今にして思えば、理系な感じが嫌だったのだと思う。

自然の中で大きな気持ちで暮らしたいのに、なんか面倒くさい、そういうことは修理屋さんに頼んでしまえばいい、と思っていた。

予測をしても覆されるような対自然との関わりに、自分の中で大らかさのようなものがどんどん備わってきた裏で、社会生活に必要な緻密さや繊細さを失っているのは自覚していたが、それを肯定してきた。そんな風に望んで移住したのだ、という気持ちがあった。

だけど嬉しいことに僕は変わる。

なにか辻褄が合わなくなってきていて釈然としないものを感じていた。

そんな昨年、軽トラの車検で20万円超の見積もりといわれて考えたのだ。

これはもっと関わらなければいけない・・・知識を得ないといけない、そしてもっと大事にしなくてはいけなかった・・・。

それまで年2回のタイヤ交換以外ほぼ何もしていなかった。荷台から草や野菜が生えてこようが洗車1つしなかった。

自分の個性の1つとしていたそんなところにメスをいれたくなった。

オイル交換をする。さび落としをして、すこし下回りを洗ってみる。

心も洗われる気がする。

調子の悪い管理機やチェーンソーも自分でやってみる。

バラシてキャブ洗浄まで、ほとんどやったことのない工程であり、不注意人間の僕はちょっとしたうっかりミスが頻発する。小さな部品を落として、それを探すだけで数十分・・・とか。

簡単にはいかない。一度締めたねじをまたはずして最初からやり直してみる・・・そんな繰り返しである。

だけどやっているうちにわかってきた。

しっかりと場所や道具の準備をして、構造の知識を得て、マニュアルに沿い順番通り、1つ1つ丁寧に進めていけば、実は確実に行きつけるのだ。誰でも。

慣れてないと時間を馬鹿みたいに取られたりするが、やればできる・・・やろうとしているうちにできるようになる。そうなれば面白くもなってくる。

ズバリ”機械いじり”の面白さとは、裏切らないところ、だろうか。

面倒くさそうでも投げ出さず、腰を据えて一歩ずつ進んでいけば必ず見えてくる。

自然と対峙し、受動的な対応力を身に着け、そこに醍醐味を見出してきた僕だが、こうした新境地に触れ、人生の楽しみを増やしていけるならそれは嬉しいことでもある。

結局、ありがちな表現だが、人生の可能性の大きさは自分次第ってことなのだろう。

 

 

 

雑草のように育った野菜をめざして

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ホウレンソウと雑草。

 

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心地よさそうに見える瞬間は確かにあるけど、猛スピードであっという間に追いつき追い越してしまう雑草という名の僕の意識の中の部外者から、大事な作物守ってあげなきゃ、と思う。 

 

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雑草のように育った野菜が食べたくて探していました!

僕を探しあてた感動を伝えてくださった方がいた。僕の方が感動した・・・そんな、オレごときが。だけど応えたいな!

 

たしかに僕は栽培において雑草となるべく共存させようとしている。雑草のように強く!との願いを込めている。

だけど最近思うのは、雑草のように・・・にしてはやっぱり構いすぎてしまうんだなぁ、ということ。

雑草というのは名のごとく人に構われないで勝手に育つ。だからこそ、淘汰が当たり前に繰り返される自然界を生き延びようとするたくましさが、それぞれに備わっているような気がする。

そのことをひとことでいえば、せん相田みつおだ。にんげんだもの・・・だ。

 

やはり人間は人間。

人間より動物の方が好きだ!と本気でよく思うが、人が犬猫鶏みたいに生きなければいけないなんてことは当然なく、人間として持って生まれた能力をいかし、人間らしく楽しんで生きることで人生の意味は見いだせるものなのだと思う。人間らしさというのは難しいが、動物的な本能を満たす以上の喜びを感じられる特性・・・だろうか。

だけど、そんな特性に基づいて進む道は先細りで、結局土台がなければ進めないものだと気づく。

喜びは”健康”というものの上にのっているから感じられるものだと・・・。

 

 

この時代の”健康ブーム”は必然というか、きっと当然の成り行きなのだろう。

そして僕はその健康に携わりたい。そう的は絞れている。

なにも大それたことではない。自分、自分の家族、手の届く範囲の人、飼ってる鶏、栽培する野菜・・・それらの健康のサポートができるなら、それだけで僕のこの小さな農業にだって大きな意味がある。

にんげんだものといわないで、いかに構わぬふりで、強さたくましさあふれる作物を提供できるか。

にんげんだけど、にんげんだから、にんげんのやりかたで、健康を取り戻してみようじゃあーりませんか。

僕はその駒の1つでいたい。 

 

夢が叶うまで

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何をしていてもときめきを感じられる。

ウキウキ感がどこからかやってくる。それは春が近づいたサイン

そんな心身の反応、きっと僕とえつおさんばかりではないだろう。

春は自然に生きる生物すべての希望の時だろうか・・・。

 

毎年毎年繰り返される自然の摂理。

しらばっくれた僕のそれには、じつは膨らんで膨らんではち切れそうな夢の蕾が内包している。

32年も前に抱いたささやかな秘かな夢。3年で叶うと思っていた・・・。蕾のままで今に至るまでの負のスパイラル、屈辱のトンネルがそれをとてつもなく強固なものにしてくれた。だから余計に、なのか夢の蕾はなかなか開かないが、叶ったらきっと起こるだろう状況のイメージに、僕はずっと支えられてきた。

だけど、夢はいつかきっと叶うもの・・・だろうか。夢半ばで潰える、それも人生なんだな、と最近は思うようにもなった。

 

よい例えが浮かんだ。

彼女の誕生日、山のようなバラの花束をプレゼントする・・・それはサプライズ。

プレゼントの用意はない、どころか誕生日を忘れているかのような振る舞いが彼女を失望させている。

宅配便で届く手はずだ。黙っていよう。溜めて溜めてその先に、きっと大きなよろこびが生まれるだろう。

だが指定の時刻を過ぎてもまだ来ない、いつ来るかいつ来るか、でも来るのは確実なんだ・・・いや、もしかしたら何かの手違いで・・・ そうだ確実ということはないんだ。

 

でも信じたい。もう間もなく”その時”がやって来ることを。 

その時を夢見て生きよう。

 

春はいいなぁ。

春があるから生きていけるんだな。

 

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小学校卒業の娘が担任の先生に頂いた色紙の言葉にじーん

卵に頼む

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 今年は春が早いかしれねえなぃ

 そんな気がしますねぇ

 急に動かされちゃ身体ついてかねえわぃ

 この冬は寒かったですからねぇ

 まあボチボチやるだで

 そうですね

と散歩中の近所の兼業農家の方とオッサン同士の会話。

・・・

もう3月。

お彼岸までの3週間でやるべきことを列挙してみたら手帳1ページに書ききれないほどになった。

とはいえ、あれもこれもと思ってしまうとうまくいかないので、1日1日的を絞った仕事をしよう、というのが今年の目標である。

 

そしてまずは毎日健康でいられること。それがクリアすべき最初の関門。 

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6羽の卵。 

オムレツにして頂いた。

 

彼女たちと同じように、元気に自然にたくさん動けたらいいなぁ。