年: 2018年
藤
アレチウリの侵略
旬の・・・
6×2
自然栽培・・・
吹雪の朝。
思い立ってカメラを用意すると突然やんで、太陽が現れた。
春の光は強く、瞬く間に雪は溶けていく。
それにしても、初夏のような日が続いたあとにまだこのような日がやってくる。
昨日近所の果樹農家が話していた。
今年は怖いな、ちょっとした霜で全滅、とか・・・。
こうした自然と向き合い、対応することで成果を上げることがいかに困難かを思う。
そこで考えるのは「自然栽培」というものがだいぶ世に認知されるようになってきたこと。
だが、本当にこの世の中でその本質はくみ取られているのだろうか。
無農薬、無肥料栽培をうたっている。
その魅力的なフレーズは独り歩きしているところもある。
単にブームで終わらなければいいのだが・・・。
近頃は無農薬無肥料栽培に特化した農産物を手掛けるという会社やお店が増えてきたようだ。
そのことは実際その方法で生産できている農家が増えているという証でもあるだろう。
そこは素直にすごいことだと思う。
屋号のせいだと思うが、僕のところに引合いがくることもある。
その場合はこう言う。
無農薬ですが、肥料を否定していないので相応しくないです・・・
まず、ぴんと来ないのが無肥料栽培という言葉である。
作物の生育は肥料分によるのではないのかなと思う。自然の有機肥料分で育っているのでは・・・だとすると無施肥栽培といった方がいいのでは・・・うーんまてよ、農薬も肥料も持たずに栽培するという意味ならおかしくはないのかな・・・
まあ、それはいいが、無肥料であることに拘ることは、僕の場合はこれからもないだろうと思っている。
仕込んであった発酵肥料(ぼかし肥)が完成し袋に移した。効き目のある肥料であってくれたら、と願いながら。
作付け量に比較すれば僅かな量だ。肥料設計などはすることもないが、知力不足による生育不良と感じれば補いとして施すようにする。
圃場周辺や地域で循環する米ぬか、山土,おから、木灰が原料である。
望む作物の生育に対し、作付け場所の有機肥料分が不足していれば補うための肥料、それを否定する発想はない。
実際のところ、自分の栽培以外のことはよくわからない。
就農当初よく言われた、「農薬なしで野菜なんて作れるか!」みたいに「肥料なしで野菜なんて作れるか!」なんて僕がいうわけはない。
土と作物、陽光、水、それだけで育つのだともいう。土の有機肥料分は問題ではないそうだ。
「自然栽培」はかなり奥が深く魅力ある栽培法だろうという想像はできる。
だけど、僕には大事にしたい蓄積がある。
「自然農」から始めて、ひたすらに、たくましく健康で美味しい野菜をめざし、有機物と農業経験を蓄積してきた。
今、カテゴライズするなら、僕のそれは有機栽培なのだろう。
畑の作物、生き物、自分の心と体、他人の心と体、食べて循環する人や生き物、過去、現在、未来・・・ 健康をベースにした有機的な循環であったらと思う。
「自然栽培」ではないが自然と一体でありたい。
自然栽培は遠巻きに見ていよう。
自分の感性に合う、健康で美味しい作物を育てることだけを考えて、畑に向き合おうと思う。
やればできる
東京から田舎に移住して、生活は一変し、思い描いたように百姓になり、身の回りのことをできるだけやろうと思っている。
1つまた1つとやるべきことが現れ、それを何とかこなせばそれが”できること”になる。
都会の暮らしには農機類やチェーンソー、自家用車も不要だった。
それが田舎の暮らしは、そこは描いたイメージとは少し違った・・・結局のところそういう時代だからだが・・・そうした”機械”に支えられて成り立っている。都会とは別の意味で機械頼みの暮らし。
それらが今の生活では手足のような必需品となっている。
それなのに・・・僕は当初から「機械いじりは」苦手と言っていた。修理にはあまり手を出さなかった。まったくやらないことはなかったが、ちょっと入り組んでくるとや~めた、と投げてしまった。
今にして思えば、理系な感じが嫌だったのだと思う。
自然の中で大きな気持ちで暮らしたいのに、なんか面倒くさい、そういうことは修理屋さんに頼んでしまえばいい、と思っていた。
予測をしても覆されるような対自然との関わりに、自分の中で大らかさのようなものがどんどん備わってきた裏で、社会生活に必要な緻密さや繊細さを失っているのは自覚していたが、それを肯定してきた。そんな風に望んで移住したのだ、という気持ちがあった。
だけど嬉しいことに僕は変わる。
なにか辻褄が合わなくなってきていて釈然としないものを感じていた。
そんな昨年、軽トラの車検で20万円超の見積もりといわれて考えたのだ。
これはもっと関わらなければいけない・・・知識を得ないといけない、そしてもっと大事にしなくてはいけなかった・・・。
それまで年2回のタイヤ交換以外ほぼ何もしていなかった。荷台から草や野菜が生えてこようが洗車1つしなかった。
自分の個性の1つとしていたそんなところにメスをいれたくなった。
オイル交換をする。さび落としをして、すこし下回りを洗ってみる。
心も洗われる気がする。
調子の悪い管理機やチェーンソーも自分でやってみる。
バラシてキャブ洗浄まで、ほとんどやったことのない工程であり、不注意人間の僕はちょっとしたうっかりミスが頻発する。小さな部品を落として、それを探すだけで数十分・・・とか。
簡単にはいかない。一度締めたねじをまたはずして最初からやり直してみる・・・そんな繰り返しである。
だけどやっているうちにわかってきた。
しっかりと場所や道具の準備をして、構造の知識を得て、マニュアルに沿い順番通り、1つ1つ丁寧に進めていけば、実は確実に行きつけるのだ。誰でも。
慣れてないと時間を馬鹿みたいに取られたりするが、やればできる・・・やろうとしているうちにできるようになる。そうなれば面白くもなってくる。
ズバリ”機械いじり”の面白さとは、裏切らないところ、だろうか。
面倒くさそうでも投げ出さず、腰を据えて一歩ずつ進んでいけば必ず見えてくる。
自然と対峙し、受動的な対応力を身に着け、そこに醍醐味を見出してきた僕だが、こうした新境地に触れ、人生の楽しみを増やしていけるならそれは嬉しいことでもある。
結局、ありがちな表現だが、人生の可能性の大きさは自分次第ってことなのだろう。
春分の日が
大雪というのは
ハイこれで切り替わりまーす!
という感じ。
雑草のように育った野菜をめざして
ホウレンソウと雑草。
心地よさそうに見える瞬間は確かにあるけど、猛スピードであっという間に追いつき追い越してしまう雑草という名の僕の意識の中の部外者から、大事な作物守ってあげなきゃ、と思う。
雑草のように育った野菜が食べたくて探していました!
僕を探しあてた感動を伝えてくださった方がいた。僕の方が感動した・・・そんな、オレごときが。だけど応えたいな!
たしかに僕は栽培において雑草となるべく共存させようとしている。雑草のように強く!との願いを込めている。
だけど最近思うのは、雑草のように・・・にしてはやっぱり構いすぎてしまうんだなぁ、ということ。
雑草というのは名のごとく人に構われないで勝手に育つ。だからこそ、淘汰が当たり前に繰り返される自然界を生き延びようとするたくましさが、それぞれに備わっているような気がする。
そのことをひとことでいえば、せん相田みつおだ。にんげんだもの・・・だ。
やはり人間は人間。
人間より動物の方が好きだ!と本気でよく思うが、人が犬猫鶏みたいに生きなければいけないなんてことは当然なく、人間として持って生まれた能力をいかし、人間らしく楽しんで生きることで人生の意味は見いだせるものなのだと思う。人間らしさというのは難しいが、動物的な本能を満たす以上の喜びを感じられる特性・・・だろうか。
だけど、そんな特性に基づいて進む道は先細りで、結局土台がなければ進めないものだと気づく。
喜びは”健康”というものの上にのっているから感じられるものだと・・・。
この時代の”健康ブーム”は必然というか、きっと当然の成り行きなのだろう。
そして僕はその健康に携わりたい。そう的は絞れている。
なにも大それたことではない。自分、自分の家族、手の届く範囲の人、飼ってる鶏、栽培する野菜・・・それらの健康のサポートができるなら、それだけで僕のこの小さな農業にだって大きな意味がある。
にんげんだものといわないで、いかに構わぬふりで、強さたくましさあふれる作物を提供できるか。
にんげんだけど、にんげんだから、にんげんのやりかたで、健康を取り戻してみようじゃあーりませんか。
僕はその駒の1つでいたい。
夢が叶うまで
何をしていてもときめきを感じられる。
ウキウキ感がどこからかやってくる。それは春が近づいたサイン
そんな心身の反応、きっと僕とえつおさんばかりではないだろう。
春は自然に生きる生物すべての希望の時だろうか・・・。
毎年毎年繰り返される自然の摂理。
しらばっくれた僕のそれには、じつは膨らんで膨らんではち切れそうな夢の蕾が内包している。
32年も前に抱いたささやかな秘かな夢。3年で叶うと思っていた・・・。蕾のままで今に至るまでの負のスパイラル、屈辱のトンネルがそれをとてつもなく強固なものにしてくれた。だから余計に、なのか夢の蕾はなかなか開かないが、叶ったらきっと起こるだろう状況のイメージに、僕はずっと支えられてきた。
だけど、夢はいつかきっと叶うもの・・・だろうか。夢半ばで潰える、それも人生なんだな、と最近は思うようにもなった。
よい例えが浮かんだ。
彼女の誕生日、山のようなバラの花束をプレゼントする・・・それはサプライズ。
プレゼントの用意はない、どころか誕生日を忘れているかのような振る舞いが彼女を失望させている。
宅配便で届く手はずだ。黙っていよう。溜めて溜めてその先に、きっと大きなよろこびが生まれるだろう。
だが指定の時刻を過ぎてもまだ来ない、いつ来るかいつ来るか、でも来るのは確実なんだ・・・いや、もしかしたら何かの手違いで・・・ そうだ確実ということはないんだ。
でも信じたい。もう間もなく”その時”がやって来ることを。
その時を夢見て生きよう。
春はいいなぁ。
春があるから生きていけるんだな。
小学校卒業の娘が担任の先生に頂いた色紙の言葉にじーん
卵に頼む
今年は春が早いかしれねえなぃ
そんな気がしますねぇ
急に動かされちゃ身体ついてかねえわぃ
この冬は寒かったですからねぇ
まあボチボチやるだで
そうですね
と散歩中の近所の兼業農家の方とオッサン同士の会話。
・・・
もう3月。
お彼岸までの3週間でやるべきことを列挙してみたら手帳1ページに書ききれないほどになった。
とはいえ、あれもこれもと思ってしまうとうまくいかないので、1日1日的を絞った仕事をしよう、というのが今年の目標である。
そしてまずは毎日健康でいられること。それがクリアすべき最初の関門。
6羽の卵。
オムレツにして頂いた。
彼女たちと同じように、元気に自然にたくさん動けたらいいなぁ。
卵の評価
寒中の卵、食べていただき・・・
すごくおいしかった!美しかった!驚いた!感動した!と嬉しい感想が寄せられた。
野菜を褒められた時より嬉しい。
鶏を飼うようになってから、野菜の皮を剥くようになった。
厚めに剥き、そして彼女たちが食べられる大きさに刻む。
栄養価の最も高いといわれる辺りは人ではなく鶏に回る。喜んで食べてくれる。
料理に充てる時間は相当増えたが、なんてことはない。
僕が思いつく限りの健康的な生活をしてほしいと思って、そんな環境づくりを心掛けている。
そして今は理想的と思うぐらい、皆健康で元気に育ってくれた。
こんな鶏が生んだ卵がよい卵でないはずはないと信じているので、卵を評価してくださった方は僕の感覚を肯定してくださったのであり、”良さ”を共有できたという思いでもある。
野菜は自然の天候等に委ねている部分が大きいため少し複雑であり、伝えなければならない状況があったりするが、卵には、もうそこにすべてが詰まっている感じ。
だから年に1度かもしれないですが、卵を通じたキャッチボールがとても幸せでした。
感想の連絡くださった方ありがとうございました。
来冬はもう産まなくなるのかな・・・
どうなんだろう、そうなってからも僕は自分や妻子より優先して鶏の健康を願って料理し続けるのだろうか??
ビフォーアフター
214の日
どう見ても寒さが苦手だけど、我慢して生きている面々。
今日は”にぼしの日”らしいので、大好物、いつもの倍あげた。
昨日までと打って変わって暖かかったし、幸せが少し多い日でしょうかね。
春の兆し
巻いた白菜がすっかりなくなってしまい、200個ぐらいは採ってある自家用の未結球ものが”旬のといえないセットの1品目。
今日この未結球白菜が春を感じさせてくれました。
真ん中が黄色く伸び、とう立ちの始まりです。
段ボールに小分けして詰めてあるものですが、ちゃんと生きていて季節を感じているんですよね。
最近、ほんの2,3日前に食べたとき、そういえば若干苦みを感じましたが、見た目変わった感じはしなかった。
それが、暦の立春を合図のように暗い段ボール箱の中で急に立ち上がってきたんです。
すごいなぁ。自然界底知れないや。
ふと思うんですけど、人間のメンタルがもっと強ければもっと享受できるんじゃないですかねぇ自然を、死を恐れ過ぎなければ。
それはまあ、いいや。
今年はちゃんと立ちますよ僕も。
ちゃんと立て、ちゃんと歩け、ちゃんと喋れ・・・どれだけ言われてきたことか。
でも地に這ってずーーと見てました、自然と人間。
寒い寒い冬ですが、わくわく感が湧いてきてます。
熱量に触れる
小諸市で開催の野口種苗、野口氏&自然栽培農家、関野氏の講演にでかける。
これ、県が共催の行事とのこと。
それを聞いて思い出したのは、ちょうど15年前、まだ前職の林業をしていた頃、就農相談で県内の役所巡りをしていて、さんざん浴びせられたのは「無農薬なんてはっきり言って無理だから・・・」とかそういう類の言葉ばかりだった、ということ。・・・時代は確かに変わってきたんだな。
さて講演会。ほぼ1日がかりの講演拝聴というは初めての経験。
でも実は、事前になんとなく内容のイメージはできたし、なにか目新しい発見を・・・という気持ちはなかった。
どんな講演や書物より、農業技術やいろんな知恵に関しては、近所のおじちゃんおばちゃん宅の植木剪定の仕事の合間に学ぶことのほうが、遥かに多いだろうというのが経験上の認識である。つい先日も大根の貯蔵法について目から鱗の知恵をいただいたところ・・・。
目的はただ、人前で何時間も語れる思いを持つ人の熱量に触れることだった。
それは現時点で僕には欠けているもの。
夢や野望をもたず、待っていても絶えずそこに現れる仕事1つ1つをコツコツと淡々とこなすことを良しとする百姓の暮らし。
そして意識することは、僕は鶏以上でも以下でもなく、同じようにただ今を生きられたらいい、ということ。
そこに劣等感などはもちろんないが、いつしかどこか不足感、寂寥感が生じていたのは寒すぎる冬のせいか、加齢のせいか・・・。いろいろあるけれど、ともかく心を灯して前へ、熱く明るく! は人生大事なことだよな、と改めて感じる今日は立春だった。
滋養強壮に
スズ、ヒメ、ピヨ、プク、チビ、ころ。
たくましく育ってくれました。
1歳9か月、人間でいえば、う~ん・・・30歳ぐらいになるんですかねぇ。
この冬の寒さでもまだしっかり卵を産んでくれます。
さて、今年も少しづつになってしまいますが、卵入れてみたいと思います。できれば定期でとってくださっている全員の方に。
この時期に産まれる”寒中の卵”は滋養強壮効果upらしく、かつては大変価値の高いものだったそうです。
朝イチに鶏舎を飛び出し、それから日没の頃に自分で帰るまでの間、急傾斜地の草村のような庭と続きの畑で自由に遊んだり何か啄んだりして過ごしています。
市販の配合飼料は一切与えず、エサとして与えているのはは玄米、小麦、大豆、煮干し、米ぬか、牡蠣殻、蕎麦やパスタ、うちの野菜と笹の葉。水道水も飲ませてません。
生活全般、僕より間違いなく断然健康です。
ご賞味いただけたらと思います。
それぞれ個性が強く、大きさ、形、色などバラバラですが。
あけましておめでとうございます
遅いご挨拶になりました。
変わらず百姓生活に勤しんでいます。
とても寒い冬になっていますね。
このところ蒔づくり等、身体の温まるガテン系(死語?)が主な作業です。
動き方のコツ。
ゆっくり動く
張り切らない
汗をかかないように
動きは止めない
一歩先を考えて動く
そんな感じで・・・。
だいぶ掴みました。
まあ、
よく言えば年の功。
悪く言えば年食った。
ということでしょう。
では、今年もよろしくお願いします。