年: 2018年
チームワーク
1粒種
過酷体験
土曜日は東京の中学生の体験学習、ジャガイモ掘りを手伝ってもらいました。
時間は10時から15時と炎天下の作業!
かなりの過酷体験学習だったでしょう。
実際作業する畑の温度は40度を超えてます。
全員熱中症にはなんとかならずに済みましたが、こんなに疲れたことはない、と言ってました。
良い経験にはなったと思います。
僕は途中水をかぶったりしましたが、そういうのも見慣れない興味深い光景のようで、強いインパクトを与えたようでした。
まあ、自分なりにはうまくいったかな。
これからの長い人生の序奏の時、心の中になにか少しでも残るものがあればと思います。
・・・
東京ではあり得ない
こんなきれいな夕焼けも
宿泊地から眺めてたかな
着々
幸せの猛暑
暑い夏の闘い
草と闘い、怠惰と戦い・・・
昨日は35度だったが今日は33度だった
まだいい
グラウンド40週した34年前、35度だったとはっきり覚えている
8時から18時まで練習だったな。あの日は水も飲めなかったが、今日は好きなだけ飲める
水筒に氷入り酢水、あと4リットルの空焼酎ボトルに湧き水汲んで持参している
ギブアップも簡単だが、簡単にはしない
古い?間違ってる?いやいや
確かなのはどんな人生も有り、であること
粘ってやるぞ!
11時間働いて
やり足りないが
19時25分作業終了
おお、畑近くの温度計は29度
暑くないか、標高700Ⅿにしては!?
なかなか手ごわい夏だ
この夕焼けのように
更に燃えていきたい
ジャングル回避
熱気
カボチャ畑
儚い命の尊さ
雨が上がると鶏達のお楽しみの時間だ。
少しずつ移動しながら地面を掻き続ける。
何度見ても全員で掻き続けている。
時々何かをつついてそして丸呑みする。
それはミミズ。何より美味しいらしい。
あっさり食べられてしまうミミズの儚さよ、されどその分も鶏の命が輝くのだから自然の摂理なのだと納得する。
命あるものは必ず死ぬ。鶏達だっていつか・・・。
畑では今日もジャガイモのテントウムシ捕殺から。
葉を食べつくしているヤツらは食欲という本能を満たしているだろう。
性欲も満たして子を宿したのだろう。葉の裏を見れば今日もおぞましいほどの量のベビーラッシュである。
成虫は葉の表面にいて食べ続けている。
子も親も片っ端から一網打尽とばかりぶっちゅぶしていた。
さすがに親は簡単には殺せない。不用意に手を伸ばすと転がり落ちる逃げ技を使ってくる。
ただし中には食事に夢中で全く気づくことのできないヤツ、気づいたが運動神経が劣っていてうまく逃げられないヤツもいたりする。
2メートル先に魔の手が忍び寄っていることに気づき、さっと空に飛んでいくようなすげーヤツもいて、同じ姿かたちに見えてもずいぶんと個性が違う。
翻って子は、べったりと葉にしがみついていてほぼ動けない。だから始末に造作はない。
へっへ今日は何匹殺めるか、なんて調子に乗って始めたのだが・・・途中で手と身体が止まってしまった。
もうやめよう・・・自分でも信じられなかったが、不意に涙が出た・・・。
帰宅してテレビをつけると折しも豪雨による災害で死者多数というニュースが目に飛び込んできた。
命はほんとうに儚い。
テントウムシの命、ミミズの命・・・さらに鶏の命、自分の命、自分に近い人の命、見ず知らずの他人の命。
命に違いはなく、いつか必ず尽きるもの。だからこそ命はすべて尊いもの・・・。
まずは身の安全を確保してください!と言うまでもなく、生きるものすべてには生存本能が備わっているのに、それに反して不意に絶たれる命がある。
鶏が活き活きとミミズを捕らえていたように、自分の本能が他の命を絶った、のは自然の摂理。
だけど僕のテントウムシ捕殺はどこまで許されるだろう。
必要最低限の捕殺って何が基準だろう。
得意になって・・・
本能を失っているだろうか・・・。
なんかもっと良い人間・・・ではなくて良い生物になりたいと思った。
虫対策
ジャガイモを掘り始めました
少し早いですが、28星(ニジュウヤホシ)テントウ虫くんたちに葉を食いつくされてしまったものが結構あるからです。そうなるとイモはもう大きくならないし、草に覆われて掘りづらくなってしまうからです。
まあいかんせん小さいですが、新小ジャガイモとして”旬のセット”にも宅配にも登場させました。
北あかりは、今年ほとんど小イモでしょうか・・・男爵もそうかもしれない。もう少し早く手を打つべきでしたが、なかなかその気にならなかった・・・まあ手を打つというのは、潰すことなんです・・・ぶちゅぶちゅと。
最後に残っているのはレッドムーン。この葉はまだ結構きれいに残っています。イモもそこそこ大きくなっているでしょう。でもあと3週間ぐらい肥大させたいところ。
・・・ヤリます
レッドムーンに紛れて生えているアカザを引き抜くと葉の裏には沢山の子供たち
餌のまだ沢山あるところに産み付けた親心が胸に刺さる
本当なら鶏にでもあげればこの命も無駄にはならないと思うが、そんなこと言ってられないので・・・
ぶちゅぶちゅぶちゅべにょ・・・
1時間で1000は殺めたな
でもまだ、しばらく続けないと
継ぎ足し
細い竹の子が竹に成長していく季節、竹になったばかりの柔らかいうちにすぱすぱ伐って沢山用意した補強用
継ぎ足し継ぎ足し
ラーメンスープ 支柱が熟成されていく
豌豆用から胡瓜用に
・・・
先日、畑を見学した方が「楽しい畑ですね」といってくださった。
嬉しかった。
素敵な畑・・・とか、居心地いい・・・とも少し違う、「楽しい・・・」はよりリアルな感じがした。
実際この時期に半日も居ればわかるが、大量のやぶ蚊に取り囲まれて過ごす時間に居心地の良さを感じることはなく、作物というより他生物がやたら元気に感じられる畑の姿は、栽培する人間の雑な感じも相まって素敵という上品な言葉より、まあしいて言えば楽しい感じが滲み出ているかなと、贔屓目に僕はそう見ている。
そして竹継足支柱のように、僕自身が随所に楽しんでいる。
楽しさの気もどんどん継ぎ足されて膨らんでいけばいい。
ここをホームグラウンドにして育つ野菜にとってもきっと良いはずなのだ。
ときめき
雨上がりの土の中には好物のミミズが沢山いるので、張り切ること張り切ること!
今日は少し長い時間、娘たちをじっくり観察。
食欲について考えていた。
単に空腹が満たされることを欲するだけだとすると、なんか寂しい気がする。
ゲージ飼いの鶏などはそれ以外知らない。いやもしかしたらそれさえもあまり感じることはないのかもしれない。ひたすら餌を与え続けてどんどん産ませたり、太らせて食用にするのだと聞いたことがある。
それも毎日変わらぬ決まった餌。
彼、彼女達の中にどんな心が芽生えているだろう。
淡々とただ毎日を生きることに専念している、なんて傍で感心してやれるだろうか。
どういう過程があろうと同じ1つの命の誕生と終焉、そこになんら感情を差し挟むなんて無用、だろうか。
うちでは餌にも相当のバリエーションを加えている。主食は玄米に小麦、うどん、パン、そば、パスタと日替わりだ。ゴマ塩を振りうどんやパスタは醤油をかけることもある。
おかずやおやつやつまみもまた、旬の野菜セットに、野草、草の種、虫、大豆、煮干し、米ぬか、ヨーグルト、豆腐・・・毎日日替わりで、何種類もの食材が自由にチョイスできるような形で提供されている。
されども欲にはきりがないから、要求は贅沢になってくる。
はじめの頃大喜びで食べていたうどんも今はそれほど喜んではいない。それで新鮮さをもたせるために日替わりメニューにしている。
ミミズはあそこまで喜々として食い付いていくのは希少価値があるから、そして自分で探し出す獲物だからか。
煮干しも大好きなつまみだが毎日あげているから大分感動は薄まっている。あんまり慣れてしまわないようにほんの僅かしかあげないようにしている・・・。
お坊さんのような小欲な生き方に価値があることはよくわかる。
豊かでもっともっとと追いかけていた時代に何不自由なく生まれ育ち、今ではその弊害を感じる時代を生きているからこそわかるところもある。
それこそ毎日決まった食事、変わらない日々がある。ベースがそこにしっかりとあり、それが欲望を膨らませたものでないからこそ、小さな日常の変化に大きな幸せを感じられるという、それは人間にとって究極のお手本かもしれないと思う。
幸せと書いたところ、ときめき、と言い換える。
きっとこの”ときめき”が人が生きていくために欠かせないものではないかと、ふと思ったからだ。
それを深く得るために、どのように生きるべきかを学んでいくのが、もしかしたら仏道なのではないかと。
鶏の場合はどうだろうな。鶏に仏道はわからないし、要らないかもしれない。
でもきっと”ときめき”は必要だと思うなぁ。
ときめきを沢山感じられる”鶏生”を歩んでほしいよなぁ。
彼女たちの食欲と”ときめき”がうまくリンクしてくれるように、ちょんと関わってあげたいなぁ。
自由に動き回り、たらふく食べておなかを膨らませて居眠りして、またしばらくするとむさぼり始めて、わめき散らす・・・
そんな彼女たちを見ていて、そんなことを思った。
・・・
もしかすると、野菜もでは?
多様な食べ物(養分)に囲まれた環境で新鮮な心を失わずに育ってくれるような、そういう畑であったらいいな。