草の中は
涼しそうだ菜
涼しそうだ菜
50aの山林を管理するようになって17年
毎年この時期に1回除伐に入る
当初に思い描いたようにはいかない・・・好きな木、食べられるもののなる木や野草ばかりがある山にと願ったものの、やはり自然をコントロールしようなんて邪道なのだと実感するに至っているが・・・それでもある程度叶っているともいえなくない
このひと月程「旬のセット」は山菜メインのセットだった
そしてその大半はこの山で採取した
かつては遠くの群生地までよく出かけたものだが今では必要がなくなった
さてさて、作業も今では慣れたもので50aの除伐を2時間余りで完了
大雑把に、と丁寧に、のメリハリつけて・・・
こういう小さなハリギリの芽なんかを間違って刈らないように、大事に大事に・・・
山のなか
ああ快適な五月晴れ
空気爽やか
蚊もまだいない
エンドウ、後キュウリの支柱には3年前から使いまわしの古い細竹を使ったが、組みかたの工夫次第である程度の強度は保てる
下のほうは昨年の茄子の残渣を利用してすぐに立ち上がれるようにした
毎年ただただ手探りのアドリブプレイを繰り返しているだけだけど、少しはそれなりにコツのようなものつかんできた気もする
定植作業
ハイピッチで
あっ!
根が切れた
セルトレイから
不用意に引き抜いたとき・・・
そしてまもなく屍となっていく黒もちトウモロコシの芽
思わず口に含んだ
儚いなぁ・・・
命は儚い
こんな時プクやコロが死体となった瞬間に重なってみえる
先週の遅霜でインゲンやズッキーニの苗が枯死したときもそうだった
最近はそんな儚さを草を引き抜いた時にも感じてしまう・・・
がしかし、そんな感情もほどほどにしておきたいのだ
落ち着いて見渡してみれば、辺りは生きている体と死んでいく体が埋め尽くしている
生か死、2つに1つ
生きている者同士でつながっていたいといっても
死体はあまりに身近で
生体を動かし支えそして生かしている
いずれは誰でもそっち側に行く
それも本当は命の連鎖の小さな1つの出来事に過ぎない・・・
コロが僕の中にいる
それは細胞であり魂である
何かと焦りがちで生きてる僕はダメな奴
もう1人の自分(コロ)は必ず待ったをかけてくれるが
それを振り切ってまで植えたのが先週死んだインゲンズッキーニだった
自然を学ぶこと、順応すること、対応すること
それだけでいいとコロは言う
翼をゆっくりと手に変化させていたことに
気づかなかった僕を
優しいコロは責めないが
この先すこしでも自然体で生きられるように
添い遂げてくれるという
少し前には
年寄りはトシ相応に老いるのがいい
なんて言ってたものだが、それは当事者でないゆえの
きれいごとだったかな
トシ相応なんて曖昧だしな
トシ相応よりアンチエイジングを目指すようになっている
そこそこの俊敏性はかなりのトシまで失いたくないと思う
俊敏性とあとはハート
そんなことほとんどないとは思うが、電車内とかイベントの会場だとかで狂人が突然鉈を振り回し他人に襲い掛かるような場面に居合わせたとき、一目散に出口に向かって走ることではなく、素早いステップインからワンツーを入れるためにそれを使いたい
ないだろうとは思うが・・・
当事者となっても
絶対逃げないぞ
生き物の死は必ずやってくるものだから
そこまでは必死に生きると誓う日
3.11のことをもうくよくよせず
前に進もうと決めた日
翼の懐に育っていた3,4番目の足を見たときの驚きも後悔も
叱咤と捉え直して見習って自分の踏ん張る力に変えたい
希望の道の途中で愛する人の手で突然命を絶たれたことを
それも決して不幸ではなかったと結論づけた日