収穫も出荷作業も播種も草取りもすべて1人でやっている。案の定作業は間に合わない。
作物が草に埋もれるのも仕方がないこと。
たくましく共存し育ってくれと、期待するが諦念のような思いもある。
やれるだけ精一杯やる。でも何が何でもとやみくもに、身体を壊すまでやってはいけないのだと、最近はそんな意識が強い。
諦める作業も1つや2つではないが、思いがけず力強く作物が育ってくることもある。
やったほうがよりベターという作業を飛ばしたところで大差なければ楽にもなる。
自分が把握しうるちっぽけな推測と違った次元で進んでゆくのが自然界と改めて教わることも多い。
否が応にも我が圃場では自然の生態系が高まっている側面もあるだろう。
昨年まで隣の畑にいて、毎日のように顔を合わせていたおばさんが今年は耕作を放棄してしまった。
圃場は僅か半年でこんなにも、と思うほど荒れてしまった。草が伸び、木も生えてきて圧倒される感じでもある。
いやいや、あえて荒れてしまったと書いたが、これは一般的な言い方で、かなりネガティブだ。代々の土地を守らなくては、近隣の目もある、どうにかしないと・・・それを言う時の地主の気持ちはそんなところだろう。
僕は思うのだが・・・
自然に帰した、と言ってほしい。
これからの人口減の明らかな田舎で、人の手では対処しきれない、手に余る、それは当然なこととして、管理しきれない土地があってもいいのだと、大らかに考えたい。無理に化学の力で封じ込めようとしなくても。多分悪いことばかりじゃない。
隣同士励ましあってやってきたおばさんが去ってしまったことは寂しいが、足を引き摺っての作業、あまり無理しないでほしい、他人事だがそう思っていた。
今日は不耕起栽培で5年ぐらい連作している白菜の圃場の作付け準備をした。
この場所は最低でも30年は耕されていない。
毎年同じだが簡単なこと。伸ばし放題だった草ふじが勝手に枯れて地表を覆っている、その隙間から出た邪魔になりそうな草をさっと刈っただけ。所要時間2、3分。
このフカフカの枯草の中の植え付け作業はとても楽である。
そして年々「よく育ちそう」という”感じ”が高まっている。
間に合わない間に合わないと悲壮になることもない。
管理の行き届かない農園周辺、ポジティブな要素が漂っている。