野菜作りを始めて以来変わらないが、周りの草と競い合いながら、ギリギリ勝つ感じ、とイメージしながら最小限の手助けをするように栽培してきた。
この写真のニンニクは昨年初めて耕して植えつけたが、今は競り合ってリードを保っている感じ、収穫までひと月、最後の肥大期を迎えているが、どうやらギリギリのところで勝ってくれそうだ。
このギリギリというのがやはり良くて、一方的な勝利は望まないから、昨秋に植えてから、春先に1度ざっと草取りをやった以外まったく何もせず、おかげで競った状態で収穫を迎えるこの感じ、なんと素晴らしい、と眺めている。
でも栽培初期(植え付け当初)は独走だったな・・・ 不耕起時代はどうしても初期から競り合いのストレスに晒されたが、耕したことで非常に大きなアドバンテージが得られたから。
人間に例えてみよう。
子供の頃から過酷な環境に身を置き、揉まれ、常にハングリーで、まあこれは不耕起栽培の例だが、言ってみれば昔のファイティングスピリッツに溢れた日本人ボクサーのよう。
ボクサーに限らず、貧しかった時代にはそんなふうに育ったものだ、という日本人は多かった。
豊かな時代の現代人に比べ、強い生命力に溢れ、強烈な個性を持つイメージ。
とはいえ、とてつもない業績を残す人、魅力を発する人は少数派であって、幼くして潰えてしまう命、挫かれたまま終わっていく人生も数知れず、だったに違いない。
共生も競争も大事なことだけど、子供の成長を思えば、特に幼少期には過度なストレスに晒されず、ノビノビと育っていってほしいと願うもの。
むしろ共生競争に耐えうる大人となる為にも。
耕すのは、そんな作物への願いを込めてのことなのだと、最近は思っている。