山の住人と、その知人たちによるクリスマスパーティーに参加。
ここで会食の時、何で俺はここにいるんだろう、という感覚が湧き上がることがある。
知識教養に溢れ、センス抜群で、知名度もある方々、それぞれが高いポテンシャルとオーラを身に纏っている。
その中に俺が・・・。
だが、それが何のことはない、1つの言葉で表せてしまう。”縁”というのはそういうものである。
ワイン談義には加われないが、共に自然豊かな場所に身を置き、通じ合える感覚は少なくない。
エッセイストの方が言った「ソメイヨシノはつまらない」と言う言葉が印象的だった。「接木だからね、あれは、子孫残せないんだよ」「命の力がないっていうのかな、細工してもおもしろくないんだ」・・・うむおもしろい、この辺りやや俺の範疇にもかぶる。
また夜更かしになってしまうが、少し話を広げよう。
最近種への関心が広がっていることを感じる機会がよくあるのだが、例えば野菜を宅配で購入してくださる方の中にも、F1はなるべく入れないで下さい、と言う方。また、在来種、固定種に拘っている小料理店。
これもありがたい縁で、結構注文と影響をいただいている。
でも僕は、F1も使っています、と言うし、そのことを後ろめたく思ったりもしないが、勿論F1を好ましいと思ってはいない。
よくアブラナ科の交雑したお化けのような菜っ葉を畑で見かけるように、異種の掛け合わせ1代目は強勢になるといわれる、そんな性質が分かれば利用するのが人間で、様々ないいとこどりを繰り返す1代交配種の歴史と未来だから、そこにはやはり大きな問題があると言えるだろう。
いいとこどり・・・。 う~ん、問題はそこなんだな。なんだけれどもさて、ここで、あなた、ソメイヨシノの美しさを、作られた美、と感じるか、林檎はやはりふじがおいしいと、僕なんぞは思ってしまうが、それは人工的なおいしさなのか、自然味がいかんせん足らないか。そこまで感覚を研ぎ澄ませる人がどれだけいることだろう。
多くの人にとっては知識を得て、さてその上でどう感じるか、という問題になると思う・・・
おいしいとも、美しいとも感じなくなる人がいるかもしれない。
感じたくないという意識も働いて。
おいしいのはおいしいけれど、美しいとは思うけど、これあかんかな、という人。俺はここかな。
そのくらいは全然いいでしょう。線引きは大事だけど、人が人の嗜好によって作物を品種改良することなんて、強いて善悪をいうなら、善。・・・ああ、俺ここかもしれないなぁ、いや、善ではないが・・・(中途半端)
いいジャン なんでもうまけりゃ~ 美を追い求めようヨ~ ・・・よくないねーこういうのは。
知ることはまず大事fだけど、知った後どう考えるかはセンサバン別・・・・って、そういう言葉無かったっけ、出てこないのは何故?
あ~なんやわからんよなってもうた~ さいなら~