結局最後は自然が決めることなのだ。
トマトの皮がほぼ全部裂けてしまうのは、この暑さのせいだと気がついた。
35度などという暑さと強烈な陽射しの下、トマトの中身は煮えたように熱くなり膨張する、または急激に成長する、表皮が避けるのは当然のことだと、眺めているうちによく分かった。
トマトの原産地アンデス山地は比較的冷涼な気候のようだし、品種は涼しいスイスからやってきたもの。
気の毒だったとさえ感じる。
トマト=暑い夏大好きなんていう僕の持っていたイメージが間違いだったことは明らかだ。
だから仕方がない。
なにしろ去年まで荒地だった不耕起の畑に植えて、肥料農薬与えることなく、もちろん雨除けなどせず、僕はただ見守ってきただけだ。
かわりに暑い夏大好きなオクラが隣で、モロヘイヤや空芯菜もとっても元気じゃないか。
そういうものをもりもり食べればいいかと・・・。
人工的な操作で、生育環境を整えることは可能なのかもしれない。きっとこの夏でも良品トマトを作っているスペシャリストはいるに違いない。でも僕はそういうことをしたいと思わない。
自然界と人間社会というのはかけ離れているところがかなりあると思う。
人間の快感優先で築かれてきた社会は、自然の営みを無視しなければ回らないようになっている。
それも仕方がない。
僕が小さなことで一喜一憂してしまうのは、この社会にどっぷり浸かっているからだし、また恩恵も受けながら、ここでしっかりやっていこう、との思いはあるが、スペシャリストにはなりたくない。
例えば、〇〇さんの絶品トマト、一流シェフの手にかかり、それを一流美食家(?)味わい星や点数つけたり、そして人が集まり・・・ なんていう歯車からは外れていたい。
これはやっかみとか、負け惜しみとか、逃げとかではない。
「涼しくなってきたら少しは採れるようになるかなぁ」なんて考えながら、割れトマトかぶりついたり、気が乗れば早採りしたり、僕の心地の良いフィーリングはどうもそんなところである。