朝3時半に起きて出荷用の山菜を採りに行く。
山へ行くとなれば、いくら朝早くても、大雨でも苦にならない。
適期のコシアブラ等をごっそり収穫。
もちろん枯れたりしないように、芽は1本の木にいくつも残すのが最低限のマナー。
枯れてしまえば、自分の食いぶちが1つなくなる、という感覚をイメージする。
収穫はすぐに終わり、野鳥の声だけが響く山奥を少しうろうろしていた・・・。
原始の時代から人は”食う”ことのために知恵を積み上げてきた。
山に入ると、選別したのだろう。・・・この葉は食べられそうだ。これは見るからに毒だ。この木の実はおいしいぞ。ぺっぺっこれは渋いな。焼いて食べてみたらどうだろう・・・・・
そして食べられるかどうかの選別は、同時においしく食べられるものかどうかの選別だったはずで、これに似た事を今の時代になって僕はしている。
何が食べられるか、という知識は本を読めば得られるが、家族や購入者の方に受け入れられるものかは、よく吟味しなくてはならない。
まず噛んでみて、茹でてみて、揚げてみて、これはいける!と思わなければ、即却下である。
僕のこの選別作業には生活がかかっている、と言っても大袈裟ではない。
籠いっぱいのコシアブラを眺めて思う。これが普及してきたのなんてほんと最近だ。タラノメだってそんなに昔から食べられていたわけではないようだし。
何か新しい堀り出し物はないだろうか。食べ方で化ける、という可能性も含めて、いつも山へ入るとアンテナを張り、”発見”を探る。