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ジレンマを超えて生きる

 

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豆腐屋さんでいただいたおからとコイン精米所からかき集めたこぬかにストーブの木灰を使ってぼかし肥づくり。これは農業を始めてからずっと作っている

だが、これまでは1部の品目と保険のためで作る量はわずかだったが、今年はかなり多めに仕込んでみた。

野草のようにたくましい野菜を育てたい気持ちは変わらないけれど同時に収穫増が重要項目であるので。

 

 

 

 

 

昨年まで6枚あった畑のうち、まとまっている3枚を除いた3枚は手が回らない状況が続いた。宿根草がはびこり栽培は困難を伴う。そのうちの2枚は1番最初に借りた畑と2番目に借りた畑。10年以上不耕起栽培の圃場だった。

そのうち1枚を返すことになり、地主さん所有の耕耘機で”綺麗に”耕して返す。

もう1枚はかぼちゃ畑にしている圃場。少し離れているため、いつも植えてから数回草刈りする程度でほぼ放任のまま収穫を迎えることになっている。当然多くの成果とはいかず思案のしどころではあったのだが、元々そこを貸してくださった(就農時に農業のイロハを学んだ)農業法人の親方の「起こ(耕)してやろうか」という言葉に、今回は有難くお願いすることにした。今まで何度か声をかけてもらっても頑固に断り続けてきた。お、やっと真面目に農業する気になったか、と思ったかもしれない。

 

鎌1本で永続可能な、そしてだんだん土が豊かになる、という不耕起栽培そのもののメリットを否定するものでは全くないが、大型トラクターで耕し、肥料を充分に投入し・・・という、かつて嫌悪していた「投入型」農業が僕の1枚の畑では今年実践されようとしている。 

  

 

 

 

まだ自然農に傾倒し始めた頃、手の行き届く僅かな農地を誰もが持ち、それぞれが自分の食べるものを作る為に環境に負荷の少ない農法で実践できたら・・・と夢想したこともあったが、それはとりあえず近い将来においては、あり得ないことだと思うようになった。イノセンスな夢は傍らに置いて現実を生きなければならない。現代の日本の社会の一員として生きるなら、何かしら矛盾の中を生きることになるは致し方ないのだろう。 

 

 

次元が違うとは思うが、川口さんも、木村さんや赤嶺さんだってほろ苦いジレンマを抱えて生きているのは間違いないことだと思う。

であればジレンマの解消をと思い悩むより、吹き飛ばしてしまえばいいと、今僕はそう思っている。

抽象的な表現になってしまうが、生きている以上、いつもハッピーでいたい。生きる喜びを実感していたい。自分は何が幸せか。そこを希求しなければ。

 

  

  

 

 

 

 

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早春の陽だまりに芽を出したアサツキの緑色が、今日の強烈な陽射しに眩しく輝いた。

待ち焦がれた春を迎えて、生きる喜びがあふれだしているかのようだ。 

生きる喜びは刹那の快楽とは違う、もっともっと深いものだろう。

こんな素晴らしい陽気のなかで、生きる喜びに触れながら、青い空を響き渡る山雀(やまがら)の声を聴いていると、弱い僕の心にも勇気が湧いてくる。

 

 

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ジレンマを超えて生きる” への3件のフィードバック

  1. 自然に対しどこまでも謙虚に農民を続け、家族と折り合いながら自分にとって大切なものを大事にし、野菜も愛も育て、全てを慈しんで生きていくのですね。[E:birthday]

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